こうなりたい、ああなりたいと思えば思うほど今足りない足りないと嘆いているように思えて寂しくなる。だからと言って満たされたならもっと寂しそうだなとも考える。そもそも満たされたと思う瞬間ってくるのだろうか。
自分を好きになることが大事とか、自分のことを大事に思ってあげないと、という言葉をよく目にするけど確かにその通りだと思う。だけどそれが一番難しいんだよね。この子のしゅっとした足綺麗でいいなとか、この子のふさふさな眉毛いいなとか、この子の二の腕素敵だなと私は思っていたけど話をしてると本人は案外そうではないらしくて。どうしても他人でその子自身と同じ熱量を同じように注ぐことは絶対にできないと思うと、ある意味自己愛の証明ができてるような気がしてこの人と人の遠さが心地良い。 祈り、願うこと。 私の家には珊瑚礁の化石の神様がいる。化石ってずっとずっと昔からどこかにいてそして今ここにいるこの壮大さが私の力が絶対に及ばない感じがして凄く神様っぽい。 この化石を前にお願い事をする。 自分を愛するということは物凄く難しくて言い聞かせているような気持ちになるけど、自分の中のどこかに眠る可能性のような何かを絶対的に信じてあげられている。親が絶対に自分の味方でいてくれている、そんな確信と近い安心感。そんな場所を形として作れたら面白いな、なんて考えてholyという個展の制作を始めた。 なかなか文章するのが難しくて、とりあえずここに。
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夜な夜な台所に溜まりに溜まっていたお酒をちょびちょび消費しながら、好きな音楽を聴いて。自由っていいなーと思いそういう事を言うと、自由って何ってちょっと噛みつかれそうだなーとも思いながら、でも自分にとっての自由やら遊びと思えることがちゃんとあったみたいで良かったととても平凡そうなことを考える。
たまにのわざわざレコード回して聴く音楽も、わざわざお猪口で飲むお酒も良い、洗うの面倒だけど。こういうことを染み染み良いと噛み締めるためにちょっと嫌なことも調和みたいな感じであるんだったらまぁいいか、嫌だけど。 最近何の糸が切れたのかはよく分からないけど、なにかの糸がぷつんと切れてしまったような感覚になった。多分そのぷつんと切れた音は聞こえていなかったはずだけど、確実に切れた瞬間があってちゃんとあの時の音があったらレコードのあのぷつんって音に多分似ていた気がする。 今まで言われた言葉が宙を浮く。心が萎んでいきそうな言葉よりも嬉しかった言葉のほうが多くなったように思う。そういう言葉って本当に本当にシンプルな言葉で、知ってる言葉が知ってる文法で並んでるんだけど、それだけなんだけど、自分はその言葉を何で今まで言えなかったんだろうと考えさせられる。誰かに寄り添えるような作品をつくりたいとは言っているけど、寄り添うってどういうことなんだろう。寄りかかることが出来る、それってどんな感じだったっけ。 ふと色々なことを削ぎ落としたくなったり、シンプルにしたくなる衝動に駆られるけど、自分はかなりの物持ち芸人だから到底無理だなと思いながらも初めて個展した時にももっとシンプルでいいと感じたことを思い出す。 まぁとりあえず今夜はこの日本酒を絶対に空っぽにしたい!!! 好きに結局言葉は追いつかないのだけれど、水面に光が反射してキラキラしている光景のようなあの金色の音と、湯船に潜って聴いている音楽のようなあのもったりとした声。
時々思い返したくなる会話や瞬間はこういった類の音楽に少し似ているような気がする。全く分からないはずの言葉が、音と声に包まれていると何故だか自分の必要としている言葉が並んでいるように思えてくる。そんな音楽こそ生活に溶け込み空気になる。 だからなのか、思い返したいと思う会話と瞬間は上手く思い出せなくて、でも心地良かったあの感覚だけは鮮明に残っている。 一人暮らしをしてからというもの誰かを気遣って生活するという感覚がすっかり無くなってしまった。最低限起きる時間だけは外の世界に迷惑かけない程度の時間に起き、あとは好きな時間にお風呂に入り、好きな音楽を大きな音で流し続け、好きな時間に眠る。時間軸が狂い狂って朝方まで起きてることも夜中に起きるなんてことも日常茶飯事で。 自分の絵を客観的に見てみると多分日が出ている時間に描いた方がいいように思う。実際、個展をする時なんかは自然光がちゃんと入るような大きな窓がある場所かガラス張りが必須条件になってくる。のわりには夜中から朝方に絵を描いていることの方が圧倒的に多くて、夜な夜な描きながら一度絵の具が乾くのを待ってみたり脳内を整理するために、2時間くらいふらーっとカラオケに行ったり飲みに行ってしまったりする。たまに帰る頃には酔っ払ってしまいそのまま寝てしまうことだって日常茶飯事で。 私の家は電気を付けたり消したりするためのスイッチのようなものがなくて、毎回電球を緩めたりベッドの隙間にあるコンセントを抜いたりして電気を消していて、時々こうやって少しの時間出掛ける時は電気を付けたまま家を出てしまう。 飲んで酔ってぼんやり家に向かう午前3時半頃。 遠くから自分の家の少し薄暗いオレンジ色の光が見えると何故だか只者ではない何者かが住んでいる、そんな風に見えてしまうあの感じ。やっぱり何者かになりたい。 かなり黒色な生活をしている割に自分の描いた絵はやたらと温かくて優しくてたまに本当に自分が描いたのかと不思議な気持ちになることがある。自分が描いた絵に自分自身が追いつきたいと思うのは本当に不思議な話で、けれど本当にそう思わされている。自分が自分の絵で生活を支えられているからこそここまで絵を描くことを続けてこれたのかもしれない。 絵を描く時間を作業という言葉で口から溢れてしまった時、あまりにもそう呼ぶには冷たすぎると毎回心が変な感覚になる。絵に対してこういった些細なことにぎゅっとなるたび、温かいところが自分の何処かにちゃんとあって絵を描くということは繊細でとても丁寧な時間で、小さい頃私の髪をいつも結いてくれていた鏡に映る母の姿をふと思い出してしまう。 |
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